昨日、法事があり、父の実家の富山県に行ってきました。

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幼い頃は毎年行っていた富山。気づけば10年以上ぶりでした。


そこで、お坊さんがしてくれた「南無阿弥陀仏」という言葉についてのお話が心に残ったので、自分へ向けて記録に残したいと思います✍️

 

   

お坊さんの話は、言葉の直訳というよりも、私たちに分かりやすく伝えてくださった一つの捉え方なのだと思います。
(宗派によっても捉え方は様々らしいです🙏)

もしかしたら、お坊さんが話してくれたことの私の解釈も間違っているかもしれませんが、私はこの話を聞いて、「大切な人の死」について、新しい見方を頂けたので、私の解釈をそのまま綴ります✏️

   

   


私はこれまで、南無阿弥陀仏と聞くと、お葬式や法事で唱える言葉……くらいの認識しかありませんでした。

でも昨日、お坊さんはこんなふうにお話しされていました。

「阿弥陀仏」とは、どうにもならないこと。
そして
「南無」とは、そこから学びなさいということ

人は、大切な人の死を前にした時、

「なんで私だけがこんな目に遭うんだろう」
「なんで、うちの家族が」
「どうして、うちばっかりこんな目に!」

と、思ってしまうもの。

悲しいし、悔しいし、
「どうして」と、何度も理由を探したくなる。

  

  


でも、
私たちは人の死を通して

「この世には、自分の力ではどうにもならないことがある」ということを知り、

同時に、残された私たちは、

「あなたはどう生きますか?」
と、亡くなられた方から問いかけられているのではないか。

そんなお話だったんです。

  

  


私はそれを聞いた時、なんて言うか…
優しい?あたたかい?嬉しい?気持ちになったんです。

「亡くなった人は、自分の死を通して、残された人に大事な大事な気づきを教えてくれているのかー」

そう思ったからです。





もちろん、悲しいものは悲しい。

でも、その悲しみの中で、

「私は、何を考えて生きているのだろうか」

「大切な人に、大切だと伝えているだろうか」

「やりたいことを、“いつか”に先延ばししていないだろうか」

そんな風に、残された人間が、自分の生き方を見つめるための「問い」でもあるんだと。

同じ出来事でも、見る角度が変われば、そこから受け取るものは変わる。

そして時には、生き方まで変わることがある。

昨日、おばあちゃんとおじいちゃんを偲ぶために法事へ行きました。




そこで、おじいちゃんとおばあちゃんから
「なお、あなたはどう生きますか?」
という問いをもらって帰ってきました。

私は、ちゃんと自分が生きたいように生きているだろうか。

大切な人に、大切だと伝えているだろうか。

いつかやろうと思っていることを、先延ばしにしていないだろうか。

人の死は、
残された私たちへの問いでもある。



昨日教えてもらったこの考え方を忘れないように、今日はここに残しておきました🌿